通過するだけのタクシー

写真怪談

家の近くに、夜になるといつも青信号のままの交差点がある。
車も人もほとんど通らないのに、緑色の光だけが、空の道を照らし続けている。

残業帰りにそこを歩いていると、毎晩、同じ時間にだけ一台の車が通ることに気づいた。
黒いワゴンタイプのタクシー。
白いマスクの運転手、赤く光る「空車」表示——それが、すさまじい速さで、私のすぐ横をかすめていく。

おかしいのは、そのあとだ。
タクシーが通り過ぎても、信号が変わらない。
青のまま、何分待っても赤にならない。
まるで、そこを「何も通っていない」ことにされているみたいだった。

数日後、町内の回覧板に、交通安全のプリントが回ってきた。
「最近、このあたりでスピードを出す車が多く、危険です」と書かれていて、夜の交差点を猛スピードで通り抜ける黒い車の写真が載っていた。

ピントの外れた車体、白く飛んだヘッドライト、真っ赤な表示灯。
構図もタイミングも、私がスマホで撮った一枚とほとんど同じだった。

ただ、一つだけ違うところがあった。

助手席側の窓に、白い指が五本、ぺたりと張りついている。
車の外側から、ガラスを叩きつけるような形で。
さらによく見ると、後部座席の窓にも、リアガラスにも、同じ指がいくつも並んでいた。
どれも車の進行方向とは逆向きに伸びていて——まるで、タクシーに引きずられている何かの手のようだった。

その夜は遠回りして、大きな国道を通って帰ることにした。
ほっとしたのも束の間、背後からヘッドライトが迫り、横を風がえぐる。
振り返るより早く、黒いタクシーが私のすぐ脇をかすめていった。

ここは、あの交差点から何本も離れた国道だ。
なのに、見慣れたマスクの運転手と、赤く滲んだ「空車」表示。
助手席側の窓ガラスには、あの指がぴったりと張りついていた。
周りの車は、何事もなかったように走り続けている。あのタクシーのことなど、誰も見ていないかのようだった。

翌日、会社でその話をすると、同僚がタクシー会社の名前を検索してくれた。
少し黙り込んでから、「そこ、三年前に潰れてる」とだけ言った。

深夜の送迎中、居眠りで歩行者をはね、ガードレールごと川に落ちた事故。
運転手も客も、誰が乗っていたのかもはっきりしないまま、会社は消えたらしい。

潰れる前のホームページには、黒いワゴンタクシーの集合写真が一枚だけ残っていた。
その足元、濡れた路面の反射に、見覚えのある緑色の光がにじんでいる。
青信号の下で撮られた、あの交差点だ。

それ以来、私はあの道を避けている。
それでも時々、深夜に目が覚めると、窓の外を赤い光がすっと横切る。
ヘッドライトではない、低い位置の、流れるような赤。

怖くなって、スマホに保存したピンぼけのタクシー写真を何度も拡大した。
窓ガラスに貼りつく白い指は、見るたびに輪郭をはっきりさせていく。

昨夜、とうとう気づいてしまった。

助手席の指の一本だけ、ほかより不自然に長い。
第二関節が少し内側へ曲がっている。
それが、私の右手薬指と全く同じ形だということに。

あの車は、今もどこかの暗い交差点を「空車」のまま通過し続けている。
ただし、窓の外に張りついた手だけは、もう空いていない。
次にブレーキを踏んでしまったとき、そのうちの一本が、きっと車内側に回されるのだろう。
私の指が、そうなったように。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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