炭の匂いが沈むカウンターで、誰も座っていない席がひとつある。
割り箸立ての影、青いセルフレームの眼鏡がいつも置きっぱなしで、店は忘れ物として受け取らない。拭き上げのたび、店主は眼鏡の周りを避ける。「そこは、手を入れないほうがいい」――そう言って。
夜が更けると、氷だけが入ったハイボールのジョッキが、その席の前に出てくる。注文は通していない。ラベルの黄色が、油の照り返しでやけに温かく見えるのに、把手は冷たく曇る。
氷が「カラン」と鳴るたび、焼き台から戻った串が皿に一本ずつ増える。皮、ハツ、レバー、シロ、砂肝――客のいないはずの席の前で、焼き鳥は順番を守って並ぶ。空の小皿には、誰かが指で掬ったみたいなタレの跡が、毎回同じ場所に残る。
私はその日、勇気を出して席をひとつ詰め、眼鏡の向こう側に身体を向けてみた。
気配はある。薄いタオルが、息を受けたように少しだけ持ち上がり、レンズの内側がふっと曇る。
「すみません」声をかけかけて、飲みかけのジョッキに目が止まった。氷の角が、まるで喉仏みたいに上下している。液面の揺れが落ち着くと、把手の内側――厚いガラスの層に、顔が貼りついていた。
ジョッキの縁から頬骨が始まり、ラベルの楕円が虹彩になって、私を見ている。
目は、笑っていなかった。
串が六本そろったとき、氷が二回ずつ鳴った。
カラン、カラン。
カラン、カラン。
カラン、カラン。
店主が「お代わりは?」と振り向いた瞬間、皿の右端の皮が、誰かの歯でちぎられたように形を変えていた。温度も湯気も、さっきまでの料理と変わらないのに、噛みあとだけが乾いていた。
「眼鏡……いつから置いてあるんですか」
自分の声が、ジョッキに吸い込まれる。把手の向こうの顔は答えない。ただ、氷が鳴るテンポだけが早くなり、二拍ずつ、二倍ずつ、時刻みたいに進む。
私が視線を逸らした一瞬、レンズの曇りが内側から拭われ、長い指の跡が四本、外に向けて滑っていった。
それで、はっきりわかった。ここにいるのは、座ったことのある人間じゃない。――「ここで待つ」ことだけが残ってしまった誰かだ。
最後の一本を、私はわざと食べずに、串立てに戻した。すると、氷の鳴る間隔がぴたりと止まる。
店主が会釈して、眼鏡の場所に新しいタオルをそっと置く。
その夜、閉店まで、ラベルの目はまばたきをしなかった。
帰り際、振り返ると、皿の串が一本、いつの間にか斜めを向いている。まるで「また来い」と合図するみたいに。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。



