朝、会社へ向かう交差点。横断歩道の白線が左右から寄り合い、中央だけが赤茶けた三角に削れている。
最初は単なる路面補修だと思った。けれど、通勤の群れの中で気づいた――あの三角だけ、誰も踏まない。踏みそうになった靴が、見えない糸で引かれたように微妙に逸れるのだ。
ある日、急ぎ足の若い男が最短距離を選び、三角の先端を踏み抜いた。靴底が「しゅっ」と紙を裂くみたいに沈み、本人だけ半拍遅れて揺れた。次の瞬間には歩調を取り戻して去っていったが、路面に濡れたような足跡が三つだけ残った。見ている間に乾くはずのそれは、夕方になっても薄く光っていた。
翌週、その男が出社しない。行方不明、と噂になった。最後に見たのは交差点だ、と私は言い出せなかった。
以来、私は三角を避ける。だが、信号の変わり際、人の波が押し寄せ、背中を押された。踵があの先端に少しだけ触れた。
冷たさ。薄い膜を破る破片の音。世界が一枚剥がれ、下に同じ横断歩道が幾層にも敷かれているのが見えた。白線はページの罫線で、赤茶けた三角はページの隙間から覗く“舌”だった。そこに触れた足裏から、音と時間が舐め取られる。私の足音が一小節遅れて遠くで鳴った。
慌てて引いた足には何もついていない。ただ、影だけが向こうの層に残ったらしい。
それから私は、交差点を渡るたび影の位置がずれる。昼の太陽でも、私の影は半歩先で信号を待ち、先に渡っていく。
写真を撮ると、三角の中に人の足の形の摩耗が増えている。地図のような剥げが日ごとに輪郭を持ち、左・右・左の順に並んで、交差点の外へ薄く延びる。
私はまだここにいる。けれど、影はもう何度も渡り切った。
三角の舌は、通るものから最初に“足跡”を食べる。次は足音、その次は遅れた分だけの時間。
あの日の男の遅れは、今も白線の下でカサカサと紙をめくっている。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。



