井の字に戻る水

写真怪談

夜の現場は、雨上がりの匂いが濃かった。
型枠の立ち上がりが迷路みたいに走り、金色のアンカーボルトが点々と星座みたいに光っている。俺は設備屋で、配管の通水確認に呼び出されていた。赤と青のホースは血管、灰色の管は骨。ライトの円の中で、それらが生きものみたいに微かに膨らんだり縮んだりする。

水を流すと、遠くの排水口から声がした。
流れる音に混じって「もとへ」と聞こえた。気のせいだと思って止水したが、今度は逆流の泡が、管の内側を這う影の形にまとまっていく。膝をついて覗き込むと、透明な“顔”が管のカーブに沿ってこちらを振り向いた。輪郭は水の膜で、目だけが暗く、そこに照明が吸い込まれて消えた。

近所のじいさんが言っていた。「この土地、昔は共同井戸でな、埋めるときはちゃんと拝んだほうがええ」と。現場監督は笑っていたけど、笑いは今ここにはいない。
顔は、泡の拍動に合わせて口を開いた。「井の形を返せ」と。
見渡すと、基礎の直線が縦横に組まれて、偶然なのに“井”の字に見えた。赤い給湯管が一本、勝手に震えて、ボルトの列をなぞるように滴を落とす。湿った指の跡みたいな水痕が、コンクリートに四角い輪郭を描いていく。まるで、もう一度ここに井筒を組みたがっているみたいに。

恐ろしくて、俺は栓を開き直した。水は一気に走って、メーターが逆回転した。顔は笑った気がした。管の中を“下から上へ”昇っていき、床の暗がりへ消えた。
あとには、円を成し始めた水痕と、ボルトに絡みつく藻みたいなぬめりだけが残った。

翌朝、大工に見せたが、乾いた床には何もなかった。ただ、配管の取り回しが夜のうちに変わっていた。俺の記憶と違う経路で、赤も青も、基礎の中央に向かって収束している。
新築が完成して引き渡された数か月後、住人から連絡があった。「夜になると、風呂の排水が呼吸するみたいに上下する」と。俺は黙ってメーターを見た。針はときどき、ほんの少しだけ戻る。
水は道を忘れていない。家の中を使って、“井の字”に戻ろうとしているのだ。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

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