仕事帰り、同僚に呼ばれて店の前まで来た。赤と青の提灯がぬるい風に鳴り、ガラス戸の内側ではビールケースを積んだベンチに人が詰めて座っている。私は入り口の縄暖簾を撮ってから、手で割って中へ入った。縄は指先に冷たく、雨でもないのにじっとり濡れていた。
「今夜は一本、増えてるからね」
カウンターの女将が言った。店先の木の棚には小さな苗が三つ、窓の下のバケツには透明の傘。どれも、誰かがさっきまで触っていたように温度を持っている。
私の席は四人掛けの端。すでに三人が揃っていたが、テーブルにはグラスが四つ置かれている。誰も持たない一本が、内側の席に曇りを作り、水滴がゆっくり垂れた。乾杯の音が四つ鳴り、そして遅れて、空気の奥で五つ目が小さく触れた。
「ここはさ、常連が死ぬと縄を足すんだよ。一本足すと、席が一つ余る。余った席には、そのひとが来る」
女将が、唐揚げを置きながら囁いた。彼女は視線をテーブルの向かいに落とす。そこには赤いケースの上に座布団、誰も座っていないのにわずかに沈んでいた。箸立てが勝手に揺れ、醤油皿の表面に輪が広がる。店の喧騒はそこだけ避けて流れ、笑い声が岩を迂回する川みたいに歪む。
窓の金網ガラスに、白いワイシャツの肩が映った。実際には誰もいない。ふと、棚の苗の先が、その空席の方へピンと向きを変える。女将は迷いなく、そこへも料理を一皿置いた。湯気だけが、ゆっくり消えていく。
最後の一杯を頼むと、女将が縄暖簾の房を指さした。「帰るとき、一本つまんで撫でていきな。連れて帰らないための、この町のやり方だよ」
会計を済ませ、私は言われた通り縄の毛羽立ちを撫でた。指に何か細いものが絡み、抜けた。黒い髪――私のもののようだった。どこで引っかかったのか思い出せない。傘立ての中の骨ががちゃんと鳴り、背中を押すように夜風が吹いた。
振り向くと、空席に置かれたグラスが、もう曇っていなかった。代わりに、私のグラスの外側に新しい水滴が一筋、上へ向かって這い上がっていた。
翌日、昼間の店先を通ると、縄はまた一本増えていた。写真を見返すと、撮ったはずの時刻には四本だったのに、いま画面の中では五本、いや――数えるたびに房の影が増える。提灯の赤が少しずつ濃くなり、窓の向こうで、沈んだ座布団が私の背丈にちょうどよく形を取っている。
女将の言葉が喉に残った。「席が一つ余ると、そのひとが来る」
今度余るのは、誰の席だろう。私は指先の髪の感触を思い出しながら、もう一度、縄の冷たさを確かめに行きたくなるのをこらえた。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。
