麦穂の影、揺れる晩酌

晩酌怪談

夜の駅前でふらりと入った小さな居酒屋だった。
木のカウンターに腰を下ろすと、店主が静かに「今日は良い風が吹いてますね」と言った。
言葉の意味は分からなかったが、グラスに注がれたビールの泡が不自然に長く揺れていた。

目の前の皿には、こんにゃくとピーマンの炒め物、そしてカレー味のじゃがいも。
それぞれが照明の光を反射し、油の粒がきらきらと小さく震えている。
その向こう――窓際には、瓶に挿された麦穂がずらりと並んでいた。
不思議と、風もないのに穂先がわずかに左右へ揺れている。

「それ、いつから置いてあるんです?」
何気なく尋ねると、店主は少し黙って、低く答えた。
「先代の店の開店祝いでね。枯れても捨てられんのです。あの人が、麦を見てると安心するって言ってたから」

その言葉を聞いて、自然と自分の前の瓶へ視線が向いた。
ラベルの模様は見慣れたもののはずだった。
だが、照明の光が反射した一瞬、金色の線がふと動いたように見えた。
――まるで、そこに描かれたものが、こちらを見返したかのように。

カウンターの隅から風が抜けた。
瓶の口がわずかに震え、麦穂がざわざわと音を立てた。
まるで、誰かがそこを通り抜けたかのように。

それでも店主は平然と、皿を拭いている。
その背中を見ているうちに、俺は気づいた。
――麦穂の影が、店主と違う方向に伸びている。
外の街灯の角度とは合わない。
むしろ、カウンターの下から這い上がるように伸びていた。

「先代さんって、今は……?」

問うと、店主は手を止めずに答えた。
「この店のどこかに、まだ居るんでしょうね。麦の匂いがするときは、たいていそばにいる」

そのとき、皿の油の上を、ひと筋の影が横切った。
蛍光灯が一瞬だけチラつき、グラスの泡が静かに消えた。
ふと窓の外を見ると、麦穂の影が、ガラス越しにこちらを向いていた。

その夜の帰り道、ポケットの中に乾いた香りが残っていた。
――焦げた油と、麦の匂いが混ざったような。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

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