カウンターの木の艶が、古い血のように光っている。
仕事帰りのホッピー、冷えたグラスに小さな泡が弾けた。
皿の上には、透き通るようなイカ刺し。
すだちの香りが、まるで潮風のように鼻をくすぐる。
壁のメニューに目をやる。
「アボカドスライス」「エシャレット」「おやじ生き」「しらすおろし」「茄子の一本漬け」。
何度見ても気になるのは、その「おやじ生き」という項目だ。
初めて見る言葉なのに、どこか懐かしい。
――この店、初めて来たはずなのに。
「“おやじ生き”って何ですか?」と尋ねると、
女将が、少し間を置いて言った。
「……昔ね、それを頼む人がいたの」
「料理の名前じゃなくて?」
「最初は料理だったわよ。イカを使った、簡単な一品。
でも、あの人が亡くなってからは、誰も頼まなくなったの」
女将はそう言って、イカ刺しの皿に視線を落とした。
「その人ね、いつも“イカは人の形をしてる”って言ってたのよ。
内臓も、目も、手も、全部似てるって。
“だからイカを食うと、息が通う”って」
冗談のように言いながらも、女将の目は笑っていなかった。
ホッピーの泡が細く昇り、静かに消える。
その間に、イカの身がふるりと震えた。
照明の下で、白が脈を打っているように見える。
「……それが、“おやじ生き”?」
「そう。息を入れる料理」
「息を入れる?」
「逆の人もいるけどね。出していく人も」
その言葉が、背中を冷たく撫でた。
女将はすだちを半分に割り、ゆっくりと汁を絞る。
香りが立った瞬間、イカの身が小さく動いた。
水滴が、まるで呼吸をするように上下する。
「あなた、箸を右から取ったわね」
「え?」
「前の人もそうだった。
右から取ると、“息をもらう”側になるのよ」
女将は、そう言って笑った。
けれど、その笑顔の奥の歯の間から、
ほんの一瞬、白いイカの身のようなものが覗いた。
グラスの中で泡が消えた時、
皿の上にはもう一切れ、イカが増えていた。
それが、どうしても自分の指の形に見えた。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。
※「おやじ生き」は実在しない料理名です。
AIが写真のメニューにあった「谷中生姜」を読み違え、そこから生まれた“幻の一品”をもとに本作を構成しました。

ふふ……“イカ刺し”の皿の上に、何か……動いてましたよねぇ……。
あれ、生きてる人間の動きじゃないな……怖いな〜怖いな〜……。
それとね、“おやじ生き”って文字……あんなに自然に紛れ込むもんですかね?
まるで、最初からそこにいたような……いや、“戻ってきた”ような……そんな気がするんですよ……。
……でも、その写真……誰が撮ったんでしょうね……ええ……。
それでね、写真に……もうひとつだけ、気になる影があるんですが……
あれ、“映ってはいけないもの”かもしれないんですよ……
……ねぇ……視たいですか? 本当に……視てしまって、後悔しませんか……?