夕暮れのアパート。三階建てのその建物は、陽が沈むころになると赤銅色の壁がゆっくりと血のような色に染まっていく。
私はその時間が嫌いだった。理由ははっきりしている。二階の廊下の突き当たりに、いつも鳩が一羽、じっと立っているからだ。
最初にそれを見たのは、去年の夏の終わり。
部屋に戻る途中、ふと視線を感じて顔を上げると、廊下の奥から鳩がこちらを見ていた。
首をすこし傾げ、片足で立ち、こちらを観察するように。
普通なら飛び立つ距離なのに、逃げる気配がまるでない。
「なんだ、こいつ……」
そう呟いた瞬間、鳩の赤い目が夕陽を反射して光った。
そして、ほんの一瞬だけ——鳩の顔が、人の顔になった。
見間違いだと思った。だが、その夜、二階の住人がひとりいなくなった。
翌朝、警察が聞き込みに来ていたが、誰も異常な音などは聞いていないという。
ただ一人、向かいの棟の子どもがこう言ったらしい。
「夜中、鳩がドアを叩いてたよ。トントンって」
それからというもの、鳩は毎晩どこかのドアの前に立つようになった。
止まり木でもないコンクリートの床に、じっと立ち尽くし、目を逸らすと場所を変えている。
不思議なことに、鳩が立っていた部屋の住人は、みな長くは居つかない。
引っ越すか、失踪するか。あるいは——戻らない。
そして昨日。
ついにその鳩が、私の部屋の前に立っていた。
鍵穴の前に、まるで覗き込むようにして。
私は凍りついたまま、玄関のドアを見つめた。
ドアの向こうから、かすかに「トン……トン……」と音がした。
心臓が喉を突き上げる。だが、開けてはいけないと、全身が叫んでいた。
夜が明けてから恐る恐るドアを開けると、そこには羽が数枚、血のような跡とともに散らばっていた。
そして、その中に小さな金属の指輪がひとつ落ちていた。
よく見ると、そこには細い刻印で「302」と彫られていた。
——それは、去年、最初に消えた住人の部屋番号だった。
鳩は今日も夕暮れに現れる。
廊下の端で、赤い目を光らせながら、誰かの部屋を選んでいる。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。
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